ぼくの近況
平成19年4月24日 | |
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大和三つの花風景 サークルの仲間でバスツアーに行ってきた。 @室生寺 奈良時代の末期、皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が 興福寺の高僧賢憬など5人の高徳な僧によって行われ、 これに卓効があったことから、勅命により国家のために創建された。 山林修行の道場として、女人禁制をする高野山に対して 女人の済度をもはかる真言道場として女性の参詣をゆるしたことから 「女人高野」と親しまれている。 | |
A花の郷・滝谷 四季を通して色々な花が楽しめる 今回は芝桜を目的に来た まだ植栽して日が浅いのか、床地が見えたのが残念 でも桜の花がまだ残っていて 良かった | |
B長谷寺 山号を豊山(ぶさん)と号し、朱鳥元年(686年)道明上人が天武天皇のために 「銅板法華説相図」を初瀬山西の岡に安置したことにはじまり、 のち神亀4年(727年)徳道上人が聖武天皇の勅願によってご本尊十一面観世音菩薩を 東の岡にお祀りになった。 真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三所第8番札所として 多くの人々の信仰をあつめている。 | |
平成19年4月14日〜15日 | |
信州五大城址桜めぐりと高田公園夜桜 バスツアーで行ってきた。天気に恵まれ、花は全ての所で満開。 少しハードな行程だったが満足!満足でした。 @小諸懐古園の桜 懐古園は白鶴城や酔月城とも呼ばれた小諸城の跡で 三の門には徳川家達(いえさと)公の筆になる「懐古園」の大額が掛かっています。 小諸城は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、 浅間山の火山灰で出来ている谷と丘を利用して造られ、水を用いず、 崩れやすい断崖が堅固な要塞となっています。 また、文豪島崎藤村の千曲川旅情の歌「小諸なる古城のほとり」でも知られる 信州の名園となっています。 | |
A上田城址の桜 上田城は1583年武田信玄家臣真田幸隆の子昌幸が上田城築城(1583年)。 豊臣方についた昌幸、幸村は1600年に高野山に配流され、 徳川方についた信之(昌幸の長男)が1622年まで上田を統治する。 戦国の世、親子で敵、味方に別れ、真田氏の生き残りを考えた戦略は見事花を結んだ。 | |
B松代城址の桜 松代城は、三方を山に囲まれ千曲川を天然の堀とした平城といえど堅固な城であった。 しかし、城の規模は信玄の時代からあまり変化していない。 真田氏が10万石で城主となって、信州随一の大藩の城となったが、 外様のため城の規模は拡張されず、後に本の丸から御殿を移した花の丸の造営が 唯一城の拡張とも云えるだろうか。 平成14年までの整備事業で、本の丸太鼓門・北不明門の2基の櫓門と二の丸の土塁や堀が 復元された。復元された北不明門は、太鼓門とは異なり、石垣と石垣の間に建てられ、 中世城郭の城門を思い出させてくれる古い様式の門だ。 松代城から川中島の合戦の時、上杉謙信の軍勢が陣を構えた妻女山はすぐ目と鼻の先だ。 ここが川中島の合戦の舞台であったことを思い起こさせてくれる。 | |
C高島城の桜 高島城は別名浮城といわれる。 天文八年(1539年)頃、茶臼山城主・諏訪満隆が出城を置いたのが始まりとされるが、 文禄元年(1592年)に日野根高吉によって築城されたのが現在の高島城である。 当時は城の周りを諏訪湖が取り囲んでおり水に浮いているように見えることから 「浮城」とも呼ばれた。 慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、日野根氏は下野に転封となり、 旧領主・諏訪頼水が三万石で入城し明治まで続くことになるのだが、 三万石の諏訪藩には過ぎた城で「諏訪の殿様よい城もっちゃる。うしろ松原まえは湖」と 詠われた。ちなみに、この諏訪藩には後に改易となった徳川家康の六男・松平忠輝が 預けられている。 | |
D高遠城址の桜 高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城としていたが、天文14年(1545年)4月に武田信玄軍が 杖突峠を越えて高遠城を取り囲んだ際、勝ち目がない事を悟った頼継は、 自ら城を開いて降伏した。 武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547年)、 山本勘助、秋山信友に命じて大規模な改築を行い、秋山信友らを城主とした。 永禄5年(1562年)には諏訪勝頼が城主となったが、元亀元年(1570年)、 武田信玄は勝頼を自分の後継者として躑躅ヶ崎館に置き、実弟の武田信廉を城主とする。 信玄亡き後、高遠城は重要な軍事拠点として、織田氏からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を 担い、天正9年(1581年)には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となった。 翌天正10年(1582年)2月、織田信長は本格的な武田攻めを企て、 長男の織田信忠に5万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千。 織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、 最後には全員が玉砕して落城した。高遠城の落城により、武田氏は瓦解。 9日後に武田氏は滅亡した。 織田氏の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、 そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、高遠城に突如木曽義昌が攻め込み、占領した。 以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、 結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城(松本城)に撤退した。 徳川の時代となると、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主は交代したが、 元禄4年(1691)内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。 以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。 | |
E高田公園の夜桜 高田公園の桜は明治42年、旧陸軍の13師団が高田城跡に置かれたのを記念して 在郷軍人会が2200本の桜を植えたのが始まり。 現在公園の中には3400本の桜の木がある。 高田城は慶長19年(1614)、松平忠輝の居城として築かれ、 関川・青田川・儀明川の3本の川の流れを変える難工事を乗り越え、 着工後わずか4ヶ月足らずで完工した。 石垣を用いず土塁をめぐらし、天守閣も造られなかったが、 本丸南西の三重櫓が城のシンボルであった。 平成5年にはこの三重櫓が復元され、咲き乱れる桜がぼんぼりの明かりに映えて 三重櫓とともにお堀の水面にうつる様は美しく、 日本三大夜桜の一つといわれて親しまれている。 桜のシーズンには1600ものぼんぼりと300を越える露天が立ち並び、 毎年100万人の花見客が訪れる。 | |
F川中島古戦場 ここ、川中島と言いますのは現在地より南に1km行きますと大きな川「千曲川」があります。 また、現在地より善光寺へ向かって4kmほどの所に大きな川「犀川」があります。 この犀川と千曲川の交わっている中州ですから、川の中の島「川中島」と言います。 武田信玄の築いた海津城はここ八幡原より直線で約3kmです。 それに対し上杉謙信が本陣を構えた妻女山も、この八幡原より直線にして3.5km程です。 又、妻女山と海津城の距離は1.5kmです。妻女山からは海津城の動きが一望できますが、 海津城からは妻女山の動きは見えないのです。 永禄4年9月9日 武田信玄はキツツキ戦法という戦略を立て、 妻女山に陣取る上杉謙信に1万6千の軍勢で山の背後より攻め込み、 驚いて山を下って来た上杉軍を4千5百の兵力でここ八幡原で迎え撃つという、 それが世に言うキツツキ戦法です。 このキツツキ戦法を考えたのは信玄の参謀であり軍師である山本勘助です。 山本勘助はこのキツツキ戦法を考え、武田信玄に進言し実戦に移したのです。 また、築城の技術に長け、海津城や小諸市の小諸城、 また桜の花で有名な高遠城等を建てた、立派な武将でありました。 永禄 4年(1561年) 9月10日に行われた 上杉・武田の 信州川中島 を舞台にした 4回目の激戦を特に「八幡原の戦い」 と呼びます。 | |
平成19年1月26日 | |
初詣伊勢神宮 一宮真清田神社が、氏子および町会長を招待してくださった。 バス6台ほぼ満席の参加者で、 まず外宮を自由参拝し、 内宮を正式参拝後、神楽殿で神楽を拝した。 そして「おかげ横丁」を散策後、 二見が浦を参拝して帰宅。 | |
二見が浦夫婦岩 本年も健康で 暮らせますように! | |
平成18年11月15日〜16日 | |
宇久須温泉
ホテルから夕日が大変美しかった。 ホテルのチェツクイン後、 すぐさま写した 「つるべ落とし」と言うが まさに其のとおりだ、同室の人が呆れていた。 | |
伊豆松崎「なまこ壁」 「なまこ壁」は漆喰で 一、保温、防湿、防虫 二、火災、盗難予防 の目的で造られたもので、多額の経費と多くの労力を 要している。 | |
富士山眺望
初日及び二日目の朝は 霞がかかり望むことができなかった。 しかし帰りのバスの中で 綺麗に見ることができた。 バスの運転手の計らいで、途中臨時停車をしていただき、 美しい富士山を見ることができました。 運転手さん、ガイドさん、そして皆さんありがとうございました。 | |
平成18年11月15日〜16日 | |
谷川岳天神平ロープウェイ
1502mの絶景。 山麓の土合口駅から天神平駅まで、ロープウェイで約10分、 リフトに乗り継げば天神峠展望台。 麓では晴れていたが、頂上は小雪が舞っていた。 絶景の眺望は望めなかった。 | |
坂東十六番水沢観世音
坂東33番札所中の16番札所。 1300有余年の昔、 推古天皇・持統天皇の勅願による、ご本尊は国司高野辺家成公の3女伊香保姫の御持仏の 十一面千手観世音菩薩である。 平成13年7月釈迦堂が建立され、 水沢寺の秘仏がお祀りされている。 | |
平成18年11月7日〜8日 | |
出石城跡
出石城は慶長九年(1604)に小出吉秀によって山頂の城を廃して築かれたもので、一国一城制に よる但馬唯一の城。 平山城に分類され梯郭式といわれる。 城主は小出氏が九代、松平氏一代、仙石氏七代と続き、明治の版籍奉還まで二百七十年間、五万八千 石の本城として、また但馬第一の雄藩として威容を誇った。昭和四十三年に復元した東西隅櫓があり、往 時の面影を偲ばせている。 | |
伊根の舟屋
一階は船の格納庫、二階が居住用。 そんな奇抜なアイデアで出来上がった街並みが今も残るのが、伊根町の舟屋。 伊根湾の5kmにも及ぶ周囲に、約230軒の舟屋が建ち並ぶ。 映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」の舞台となり一躍有名になった。最近では、NHKドラマ 「ええにょぼ」でも舞台となった。 | |
天橋立
そもそも日本三景とは、宮城県 陸前「松島」、広島県 安芸の「宮島」、そして京都府 丹後「天橋立」です。 まず「日本三景」という発想が最初に見られるのは、林 羅山(はやし らざん)の子、林 春斎(はやし しゅんさい)が寛永二十年(1643)に、松島を天橋立・厳島とともに「三処奇観たり」と述べた『日本国事跡考』にあると言われている。 その後元禄二年(1689)に、福岡藩の儒学者 貝原益軒(かいばら えっけん:養生訓などで有名)が天橋立を旅行した記録『己巳紀行』(きしきこう)の中には「・・・そして府中から成相寺へ登ることになり、その坂の途中で、此坂中より天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也、・・・」とあり、ここで初めて「日本三景」ということばが登場するのです。 天橋立のサイト | |
平成18年10月19日〜20日 | |
四国霊場第84番屋島寺
屋島は瀬戸内海国立公園にある海抜293メートルの半島形溶岩台地である。頂上部が平坦で、その 形状が屋根に似ている所から屋島と名づけられたという。 天平勝宝六年(七五四)来日した唐僧鑑真は大宰府を出発して難波へ向かったが、その途中屋島へ立 寄り、北嶺に普賢堂を建て、その弟子恵雲律師が堂宇を整備して住職となった。これが寺の草創である。 弘仁六年(八一五)には弘法大師が登山し、勅命によって一夜のうちに本堂を建立し、自刻の十一面千手 千眼観世音を本尊として安置した。 その後山岳仏教の霊場として盛んであったが、戦乱で衰退し、藩主の援助などで再興されている。 | |
二十四の瞳映画村
この映画村は、昭和62年田中裕子主演で製作された、 「二十四の瞳」のオープンセットです。 昭和初期を模した日用雑貨、漁師の家々、学校など撮影用に作られた建物です。 「懐かしい!」「海がきれい!」「こんなかわいい椅子に座っていたんだね!」などと心をなごませ てくれるやさしい風景です。 しかし、海は霞がかかり眺めは今ひとつ残念であった。 | |
寒霞渓
1600万年前をピークとした火山活動、地殻変動又、1300万年前の火山活動、その後主に第3 期の火山活動により角礫を含んだ疑灰岩が堆積し、浸食作用により、現在の景勝地寒霞渓が生まれる。 日本の三大渓谷美の1つに数えられている名勝地で、雄大な渓谷を行くロープウェイの空中散歩が最 高。 標高612mの紅葉の見頃は、10月下旬から12月上旬。 この日は霞が終日かかり遠望は望めなかった。また紅葉もまだ早かった。 | |
平成18年10月9日 | |
大阪天保山の海遊館
オープン:1990年7月20日 建物の高さ:約50m 建物面積:約3,900u 展示水槽容積:約11,000t 構造:鉄筋コンクリート造一部鉄骨造8階建 総事業費:約200億円 14の水槽で再現した世界最大級の水族館です。 580種、30,000点もの生き物を飼育展示し、生命の尊さや地球環境の大切さを訴えています。 | |
ジンベエザメ
世界最大の魚「ジンベエザメ」が遊泳する、水槽は 深さ9m、水量5,400tという世界最大級の巨大水槽で、悠然と泳ぐ姿を見ることができました。 | |
天保山大観覧車
世界最大級の高さ112.5mを誇る観覧車。1997年7月12日に誕生。 大阪港を眼下に、東は生駒山系、西は明石海峡大橋、南は関西国際空港、そし て北は六甲山系まで一望できる。 所要時間は約15分。 | |
平成18年5月25〜26日 | |
明石海峡大橋
愛称:パールブリッジ (3径間2ヒンジ補剛桁吊橋) 着工日(起工式) 昭和61年4月26日 現地着手日 昭和63年5月 1日 明石海峡大橋は、神戸市垂水区舞子と淡路島の津名郡淡路町松帆の間に位置する全長3,911mの 吊橋です。 吊橋の規模を示す中央支間長(塔と塔の距離)は、世界一の1,991mを誇り、さらに主塔の高さ は海面上約300mとなり、東京タワー(333m)とほぼ同じ高さになります。 潮流が激しく、水深が深い明石海峡に、橋梁技術の粋が集められ、建設されました。 | |
大鳴門橋
本州四国連絡橋の神戸〜鳴門ルートに属し、渦潮で有名な鳴門海峡の大毛島孫崎と淡路島 門崎を結んでいる中央支間長876m、全長1,629mの長大吊橋です。 昭和51年7月2日に着工、工事費約1千億円で建設され、昭和60年6月8日に開通した有料橋です。 | |
霊山寺
天平年間(729‐48)聖 武天皇の勅願によって、行基菩薩 が開基されました。 弘仁6年(815)弘法大師はこの地に21日間止まって修法をされ、四国に88力所の霊場を開くことを 祈願されました。 この間に釈迦如来の霊感を受け、この像を彫刻して本尊とし堂宇を建立し、安置して天竺の霊山を わが国に移す意味 で竺和山・霊山寺と名付けました。 その後大師は四国の地に大日 如来の胎蔵界曼荼羅の道場を求め、各国を発心(阿波国)修行 (土佐 国)菩提(伊予国)涅槃 (讃岐国)の道場とし、88力寺を この道場の中にお開きになって霊 山寺を88力所霊場第1番の札所にお 定めになりました。 その後は寺運も大いに栄えましたが、天正年間(1573‐93)長曽我部軍の兵火にかかって多くの堂 塔を焼失しました。 やがて再建されましたが、明治 24年に通夜堂から出火して本堂と 多宝塔を残して焼失し、現在の建 物はその後再建されたものです。本堂は昭和40年に解体修復されました。 | |
平成18年4月11〜12日 | |
身延山久遠寺 正式には身延山妙法華院久遠寺と言う。 鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺で日蓮宗の総本山である。 文永11年(1274)5月17日に入山、6月17日に御草庵を建て住まわれたので、この日を身延山開闢の日としている。 以来日蓮聖人はこの地でひたすら法華経の読誦と門弟たちの教育に心血をそそぎ、足かけ9か年の間身延山から一歩も外に出られなかった。 | |
平成17年11月25日 | |
犬山継鹿尾観音寂光院 別名「もみじでら」と親しまれている。 継鹿尾山 八葉連台寺 寂光院(つがおさん はちょうれんだいじ じゃこういん)、真言宗智山派(総本山智積院・ 京都東山七条)、奈良の道昭和尚が白雉5年(654年)孝徳天皇の勅願を以って七堂伽藍を建立。 永禄8年(1565年)織田信長が参詣のおり清洲城の鬼門鎮護の霊刹として黒印50石、山林50町歩を寄進。 寺域10万坪全山飛騨木曽川国定公園に指定。 尾張の最古刹で、風格を持った静寂な山寺のたたずまいは素晴らしい。 | |
平成17年11月20日 | |
犬山城(別名白帝城) 天文6年(1537年)に織田信長の叔父織田与次郎信康によって造られた。 その後何代も城主が代わったが、小牧長久手合戦(1584年)には豊臣秀吉が12万余大軍を率いて城に入り、小牧山に 陣をしいていた徳川家康と戦った。 江戸時代になり、尾張藩の付家老成瀬隼人正正成が元和3年(1617年)に城主となってからは、成瀬家が代々受け継い できた。 平成16年4月に財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は個人から財団法人になった。 国宝の城は犬山城、彦根城、姫路城、松本城の4城で、犬山城が最も古い城である。 | |
平成17年11月2〜3日 | |
足立美術館 「庭園も一幅の絵画である」----創設者足立全康。 昭和45年秋の開館以来訪れる方々を魅了し続ける、名園と名画の絶妙なる調和。 13000坪の日本庭園。近代日本画壇の巨匠たちの作品1300点を収蔵。特に横山大観は130点を収蔵。 「陶芸館」では河井寛次郎と北大路魯山人の作品を鑑賞できる。 | |
蒜山高原 天気に恵まれ紅葉が最盛期であった。 蒜山大山スカイラインは紅葉のトンネルが続いた。木々の色づき、鮮やかな錦繍は見事。 紅葉はカエデ、モミジ、ナナカマド、ブナ。 国立公園・大山(1709メートル)を背景に目に焼き付けてきた。 残念なことにバスツアーのため写真はあまり撮ることができなかった。 | |
平成17年10月24〜25日 | |
黒四ダム 現役当時の同僚4人とバスツアーを利用して「黒部峡谷トロッコ列車と立山黒部アルペンルート」の旅をしてきた。 幸い天気に恵まれ、室堂(2450メートル)では雪景色、黒部ダム(1470メートル)から扇沢までは紅葉、そして緑の景色と、移り変わる景色を堪能してきました。 | |
平成17年9月13日 | |
伊吹山の花 先日の2週間前と花の種類が全く変わっていました。 サラシナショウマもトリカブトもすでに盛りが済んでいて、 今回はリンドウが盛りでした。 天候は先日同様あまり恵まれなくて、ガスで遠景を見ることができませんでした。 先日も今回もアサギマダラに遭遇できたのが一番の収穫でした。 | |
平成17年9月4日 | |
かかみがはら航空宇宙博物館 各務原飛行場は大正6年に開設され現存する最古の飛行場である。 博物館には各務原の航空宇宙の歴史をあらわす実機が 多数展示されている。 写真はヘリコプターの実機で操縦し模型を飛行させる、シミュレータをしているところ。 | |
平成17年8月28日 | |
伊吹山の花 海抜1,337メートルの山で日本百名山のひとつ。 平成15年7月25日に伊吹山地草原植物およびその自生地として国の天然記念物に指定され、保護されている。 この時期サラシナショウマとトリカブトが一番見頃。 | |
平成17年8月15日 | |
ほおのき平スキー場 平成4年からゲレンデを利用して、毎年4ヘクタールにコスモスの種を撒き約800万本が咲く。 この日は乗鞍のお花畑を見るつもりで出かけたが、頂上は激しい雨と風それに霧が深くお花は全く見ることができなかった。 | |
平成17年5月20〜21日 | |
華厳滝 日本の3大名瀑のひとつ。高さ約97メートルの断崖から轟音を響かせ一気に滝壺まで落下する姿は見事 | |
平成16年4月23〜24日 | |
由志園 島根県の大根島にあり、昭和50年4月から8年の年月を費やして築山式の日本庭園を完成 広大なボタン園をはじめ1年中いろいろな花を楽しめます | |
平成16年3月9〜11日 | |
広島原爆記念公園 | |
錦帯橋と岩国城 岩国城は毛利元就の孫にあたる吉川広家が初代藩主 錦帯橋は延宝元年(1973)岩国藩3代藩主吉川広嘉が3か月で造った 以後2度流出 | |
平成15年9月29〜30日 | |
弥彦山展望台 眼下に広がる越後平野と紺碧の日本海 彼方に浮かぶ佐渡 越後一宮弥彦神社は皇祖天照大神の曾孫天香語山命(あめのかごやまのみこと)をおまつりし、全国屈指の大社 | |
平成15年8月22日 | |
伊吹山 | |
平成14年10月1〜2日 | |
浄蓮の滝 |